災コラム

防災士や編集スタッフによる
お役立ちコラムや皆様の体験談など

東日本大震災から14年、今の福島|当事者が語る復興と防災

2026/03/06

この記事では、

  • 震災当時のリアルな体験
  • 復興の現場で見た本当の今
  • 福島県民として感じてきた変化
  • 今も続けている地震対策
  • そして伝えたい教訓

の内容を、ひとりの当事者として綴っています。
あの日を風化させないために。
そして、守れるはずの命を次に守るために。

01. 東日本大震災から14年。

「今」、私が思うこと・感じること・続けていること

(Photo AC)

私は東日本大震災が起きた2011年3月11日、福島県に住む中学1年生でした。あの瞬間の空気の重さ、乾いた揺れ音、家が軋む嫌な音、そして言いようのない不安……今でも、その感覚は鮮明に記憶に刻まれています。
14年が経った2025年現在、町は以前より明るくなり、新しい建物も増え、復興は徐々に前へ進んでいる印象です。しかし、福島で暮らす身として、生活の中にはあの日の影響がまだ残っています。

(Photo AC)

たとえば、町中には放射線量を測る機器がまだ設置され、子どもが遊ぶ公園の管理はいまでも丁寧に行われています。
また、地震が来た瞬間の行動を定期的に確認する学校や地域活動も増え、災害に対する意識は明らかに変わった印象です。
表面上は日常に戻っているようで、心のどこかに「また大きい災害が来るかもしれない」という危機感が、福島県民にはまだ薄く根付いている気がします。

東日本大震災による生活インフラの崩壊と身体への影響

震災直後、私の家では数日間の断水が続き、食器洗いやトイレの処理にも苦労しました。飲み水の確保も困難で、学校やスーパーの前には長い行列。水道が復旧した時の安心感は今でも忘れません。
また、家の屋根が壊れ(当時瓦の屋根)、壁に大きなひびが入った時も、「家ってこんなに脆いんだ」と初めて知りました。普段当たり前だと思っていたものが、当たり前ではないという現実を突きつけられた瞬間でもありました。
その現実を目の前にした時、子どもながらに強いショックを受けました。普段は当たり前に思えていた安全な場所が、ほんの数分の揺れで壊れてしまう。あの瞬間、日常の基盤の脆さを突きつけられたように感じたのです。
瓦屋根が崩れた家を見上げながら、

「地震で潰れないだろうか」
「夜寝ている時に大きいのが来たらどうなるんだろう」

そんな不安を何度も抱えて眠ったのを覚えています。私は大震災がまたくるかもしれない不安から、一時期腹痛になっていました。それほど不安に苛まれるレベルだったのだと今でも忘れません。

なぜ7割の人が東日本大震災で「亡くならなくてもよかった」と言われているのか

(Photo AC)

東日本大震災では多くの専門家が「本来なら助かるはずの命が非常に多かった」と分析しています。これは私が2018年に岩手県に視察に行った時に聞いた時の内容です。

理由には以下があげられます。

  • 過去の津波経験を基準にしてしまった
  • 「この高さなら大丈夫」という油断が無意識に働いていた
  • 車を運転している人は方向性が分からなかった(これが大半)
  • 家族を探しに戻った人も中にはいた
  • 正確な情報が届かず、避難のタイミングが遅れた

当時、福島県の浜通りでも、津波が想像以上の高さで襲いかかり、逃げる時間は本当に限られていました。津波の速さ、破壊力、音…これは実際に経験しないと想像できないほどです。

02. 復興の現実

岩手県・宮城県での復興の姿(2018年の視察経験)

(Photo AC)

先述していますが、私は2018年に岩手県と宮城県の被災地を視察しました。その時の印象は、以下の通りです。

  • 海沿いの街は新しい建物が増えていた
  • 高台移転が進んでいた
  • 道路・防波堤が整備され少しずつ観光地は活気を取り戻しつつあった

しかし、街の奥に入ると、津波で更地になった広いスペースがそのまま残り、説明看板が設置されているだけの場所も。
表面だけ見れば復興が進んでいるように見えても、街の記憶は簡単に消えません。「復興=外側の整備」だけではなく、住民の心のケア、コミュニティ再生までが復興であるということに気づかされました。あくまでも2018年の時点での記憶です。

福島県浜通りの復興の「今」

(Photo AC)

浜通りは、原発事故の影響も重なり、復興は複雑で時間のかかるものでした。しかし「今」は確実に変わっています。実際に私自身も、大熊町に2023年に行っています。

  • 新しい道路が整備されていた
  • 新しい住居や商業施設が増えていた
  • 元々住んでいた人が戻ってきていた
  • 交通のインフラが復旧

ただし、一部の地域は、まだ手つかずの場所が残っており、完全な復興とは言えません。震災と原発事故の「二重の痛み」を抱えた地域の現実を、忘れてはいけないと感じています。

福島県民の当時と今の生活

(Photo AC)

震災後、福島県では街の至るところに放射能測定装置が設置されました。子どもの通学路や公園でも、数値が表示されるように。
当時、子どもを外で遊ばせる保護者は少なく、室内で行うのがメインになっていました。中学生や高校生の中には、外の部活(サッカー部など)だった人は、室内の部活に転部する人もいました。
私自身ソフトテニス部でしたが、そこまで危険な放射能数値でもなかったため、やり続けました。私はレギュラーでした。試合では、試合に出る時以外は、バスで待機。また、非レギュラーの人らは参加できなかったため、応援は顧問の先生とレギュラーの人らだけでした。
ちょうど中学2年生だった私は、部活で活躍する時期でした。1年生や非レギュラーの人達の応援がなかったのは、正直寂しかったのは覚えています。1年生には来年どんな風に活躍できるのか、見てほしかった気持ちでした。

(Photo AC)

それから、水質に敏感になる人が増え、「雨の日はできるだけ外に出ない方がいい」「屋外のプールに入るのは厳禁」と思っていた人は大半だったはずです。
今は数値が安定し、生活は大きく改善しましたが、測定器が街の風景の一部になっているのは、震災の記憶が日常に残っている証拠だと思います。

03. 私が今続けている地震対策

(Photo AC)

東日本大震災を経験して以来、私は以下の対策をしています。

  • 飲料水を常に備蓄(最低1週間分)
  • 非常食、携帯トイレ、発電機の準備
  • 家の危険箇所(棚の固定、ガラス対策)の徹底
  • スマホの緊急アプリを常時ON
  • 家族との「緊急時の集合場所」を明確にしておく
  • 家の近くの避難所を確認

震災のトラウマというより、「あの日の感覚が忘れられない」からこそ続けている行動です。

04. 今伝えたいこと

(Photo AC)

私は福島県民として、東日本大震災の経験をただの苦い記憶にしたくありません。あの日の痛み、現実、教訓は「備えを怠らないための財産」に変えられると思っています。
「地震は突然起きる。それでも準備をしていれば守れる命がある。」
東日本大震災で失われた多くの命は、今の防災教育や対策の基盤となっているでしょう。私たちはその教訓を受け継ぎ、次の世代に伝えていく責任があります。
「今」も福島で暮らす人間として、あの経験は決して過去になっていません。
それは、私の生き方をつくった原点でもあり、これからも忘れずに向き合っていく大切な記憶だと思っています。

しょうさん

しょう

福島県出身。中学1年生で東日本大震災を経験し、断水や自宅被害、不安による体調不良を経験。以後、備蓄や避難行動を習慣化し、防災を日常に取り入れ続けている当事者視点の発信者。