災コラム

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能登半島地震|避難所運営の現場からみる避難所で大切なこと【前編:被災時の状況と避難所の様子】

2026/09/18

(写真AC)

能登半島地震の被災体験をもとに、避難所運営で感じた大切なことを伝えます。前編では、被災直後から避難所の運営についてまとめています。
昨今、日本各地で震度5以上の地震が起こっています。大きな被害が報道されていなくても、現地にいる人は不安な日々を過ごしていることでしょう。
いつ起こるかわからない災害に備え、地震発生後の避難所の現実を多くの人に知ってほしいと思っています。

避難所と避難場所の違い

2024年1月1日には、能登半島地震が起きました。私は実家に帰省していた際に被災し、1月9日まで避難所生活を送りました。

指定避難所や指定緊急避難場所など、避難するための場所にはいくつか種類があります。指定避難所は被災者が一定期間避難生活を送ることを想定した場所で、ある程度の備蓄がある施設です。

しかし、被害状況や住んでいる地域の事情によっては指定避難所以外の場所に避難する場合もあります。私が避難した場所は指定緊急避難場所とされている場所で、備蓄はなく、その場で避難生活をすることが想定されていない施設でした。

参考:避難所と避難場所の違いと種類別の特徴、災害時にどちらに逃げるべきかを解説!|空飛ぶ捜索医療団

避難場所で避難生活を送ることになり、私は運営のサポートをしました。高齢者の多い地域だったこと、家族や親戚が同じ避難所にいたことから、不便な中でも過ごしやすくなるようにと思い、サポートに努めました。

今回の記事では、避難所運営の経験を通して感じた大切なことを紹介していきます。また、実際の避難所生活で必要だと感じたものや、避難所に備えておいてほしいと思ったものも記しています。

発災直後は、自治体の職員はもちろん自衛隊の人たちも避難所にいません。避難所に身を寄せた人たちでその場をやりくりするほかなく、状況によっては、自分が避難所の運営を手伝う可能性もあります。

発災直後からの様子をつづったこの記事が、避難所運営や避難所生活の備えをする人の目に留まれば幸いです。

【前編】の本記事では、被災時の状況と避難所運営の様子についてお話していきます。
地震発生から避難所で夜を明かすまで、避難所を運営するまでを、時系列で振り返りました。

2024年1月1日 地震発生

夕食の準備をしていた時でした。地震かなと思いつつも、いつもの揺れですぐに収まるだろうと思っていました。しかし、揺れは収まることなく強さを増してきます。立っていられなくなり、必死で家の柱にしがみつきました。早く揺れが収まってほしい、そう思いながら揺れに耐えていました。

避難所に到着するまで

がけ崩れの様子

家の中は危ないと、揺れが収まり震える足で外に出ました。外に出てみると、この地域の幹線道路ともいえる道路ががけ崩れで埋もれてしまっていました。母の実家は無事だろうか。埋もれた道を進んだ先にある母の実家が気がかりでしたが、津波の恐れがあるため避難を優先し、高台の避難所に車で移動しました。

避難所までの道中、割れたガラスや落ちた瓦、2階建てだった家屋の1階が崩れた家、ひび割れた道路、町のいたるところで被害の甚大さを感じました。警察や消防に連絡もつかず、私たちはただ避難所に向かうしかありませんでした。

避難所で一夜を過ごす

1月2日4時ごろの様子

家族を避難所に一旦降ろし、私は父と家に戻りました。貴重品や、必要になりそうなものを避難所に持っていくためです。しかし余震の影響で長居できず、貴重品とコートやマフラーなど、着の身着のままの状態を解消する程度のものしか持ち出せませんでした。

避難所に戻る頃には日が落ち、集まっていた人は一つの部屋に集まっていました。私たち家族が避難したのは、高台にある、かつては小学校だった場所です。先に避難所内に入った人たちは、ブルーシートや運動用のマットなどを床にしき、寒さをしのげるよう工夫をしてくれていました。

灯油式ストーブは2台。部屋の出入り口は、強い揺れで開かなくなってはいけないということで開けたまま。部屋の明かりは、ストーブの明かりと、懐中電灯に袋をかぶせ少しでも明かりが広がるようにしただけの心もとないものでした。

眠気が来ても、トイレで部屋を出る人の動く様子や余震のたびに目が覚めました。寒さもあり、空が明るくなるまでがとても長かったのを覚えています。

避難所運営として行ったこと

避難所運営を手伝うことに

発災初日はとにかく避難して一晩を過ごしただけでした。しかし、ここから長い戦いになると予想し、役所勤めをしている人を中心として避難所として運営を行うことになりました。

誰も経験のない避難所運営。顔なじみとはいえ15世帯以上の人と共同生活をするなど、地震が起こるまで誰も想像していなかったと思います。

私は120人規模の野外活動の運営補助をした経験がありました。学習塾を運営する会社で働いていたときの野外活動の経験で、小学4年生とグループリーダーを担う大学生のキャンプ中の生活をサポートするものでした。大人子ども問わず、健康管理や応急的なけがの手当てが主な役割でしたが、食事の配膳やお茶の管理など裏方の仕事を手伝うこともありました。
その経験を活かして避難所生活が少しでも過ごしやすいものにできるならと思い、運営を手伝いました。

①避難所にいる人数の把握

人数管理

まず行ったのが、この避難所にどこから誰が来ているのかを含めた人数の把握でした。
通信ができるようになった際、安否確認の名簿が必要になるだろうと予想して名簿をとっていきました。

2日目以降は明るくなって自宅から避難所にきた人、平地の避難所から移動してくる人で、人数が変動するようになりました。衛生面や家族構成を考え部屋を割り当てていくためにも、避難所内の人数把握は欠かせませんでした。

最も多い時には、グラウンドで車中泊をしている2世帯3名を含め、43世帯92人がこの避難所を利用していました。

②トイレのルール作り

トイレルール

避難所では、トイレのルール作りも行いました。私がいた避難所は備蓄されている物資がなく、初日は流れないトイレを利用して過ごすほかありませんでした。

2日目になり、役所の関係者の努力で、トイレ内のタンクに水を入れれば水を流せることが確認できました。これからずっと外で用を足すしかないのかと思っていたので、とても嬉しかったのを覚えています。また、避難所の汚水処理に詳しい人の話をふまえ、用を足した後のトイレットペーパーの使用についてもルールを決めました。

作成したトイレの利用ルールは以下の通りです。

  1. 小では水を流さず、大で流す
  2. トイレットペーパーは備え付けの袋に入れる
  3. 大で流した後、給食室前の水くみ場からトイレのタンクに水を補充する(後から追加)
  4. 手を消毒してトイレを出る

不衛生な環境で用を足すことになるため、皆さんには消毒を徹底するようにしました。

避難している人たちにトイレが使用できると伝えたとき、皆さん嬉しそうにしていたのを覚えています。ルールを復唱してくれたり、よくわからないという人には付き添ってくれる人がいたりして、その光景を見て運営側にいる私も嬉しくなりました。

③トイレの除菌・清掃

トイレ(利用ルール発信前)

トイレ内の清掃や除菌に関する対応も、運営スタッフが中心になって行いました。アルコールスプレーは手指の消毒に使うため、衛生面に詳しい人のアドバイスをもらい、台所用の漂白剤を薄めて使いました。

トイレに関して行なったのは、以下の内容です。

  • 毎朝の清掃時に漂白剤を使って手が触れるところの拭き上げ
  • トイレットペーパーが入った袋の回収
  • 出入口の足元のタオルの交換(写真は対応前の状態)
  • 出入口のアルコールの残量確認、補充

冬の寒さの中、掃除用のタオルは避難所の雨どいを伝ってくる雪解け水や、雨水を使って洗いました。トイレ掃除の時に「避難所にいるけどトイレを気にしなくていいから安心できる」という言葉をかけてくれる人もいたので、心の支えになりました。

③物資の管理・配分

物資の管理や配分も運営スタッフで行いました。
避難所に身を寄せて2日目、3日目には、地域の人が家にあるものを持ち寄って来てくれたのです。買いこんでいたというお菓子や店舗に置いてあったカップラーメンに加え、お寺の住職からはレッグウォーマーの寄付がありました。

全体に配ることができないものをどのように扱うかを決めたり、いつ配るかを決めたり、これから届く物資との兼ね合いなど、いろいろ考えながら決めたのを覚えています。

避難所生活を始めて4日目。平地の避難所に自衛隊のヘリコプターが到着し、物資が届くようになりました。簡易トイレや水、カイロ、非常食、毛布、離乳食などさまざまな物資をいただきました。配分の際に注意したのは、次はいつ物資が届くかわからないことやいつまでこの生活が続くかわからないことをふまえ、どの部屋にも平等に行きわたるようにすることです。

全体に配分し、それでも不足がある場合には、運営本部に取りに来てもらうようにしました。これによって物資の在庫管理ができ、物資の配分量に調整をかけられるようになりました。

④食事数のヒアリング・配膳

運営側が行ったことに、1日2回の食事数のヒアリング、到着した炊き出しの配膳もあります。平地の避難所では調理場が使えたため、2日目の夜から、地域の人が家に置いていた米や野菜で炊き出しに動いてくれました。
この地震で多くの方が亡くなられ、未だに仮説住宅で生活している方も多い現状ですが、地震が起こったのがお正月だったのが幸いし、私たちの命をつないでくれたように思います。

ヒアリングを行ったのは、避難所に名前のある人がみな一日中避難所にいるかというと、そうではなかったからです。
消防団として発生した火事の現場に出る人、家の片づけをする人など、日中出かけてしまう人もいました。貴重な食材を無駄にしないよう、平地の避難所に小学校で必要な食事数を伝え、調理ができたら運んでもらいました。

配膳の際は、運営の中心となったメンバー以外にも協力を募りました。食事の数を聞きに行った時に、配膳手伝うから声をかけてね、といった協力的な人もいたのがありがたかったです。

⑤避難所内外の情報を発信

避難所内のルールだけでなく、外部と連絡が取れた人の情報をもとに情報共有も行いました。地震発生以降、私たちは通信手段が使えず、外部と接触が取れませんでしたが、地域のある一地点では携帯電話やスマホが使えたのです。

避難所の人に必要な情報を書き出し、トイレの出入口や本部の掲示板など、目に触れやすいところに手書きのお知らせを掲示しました。発信した情報の中には、不審な車両が入ってきているという真偽が不確かなものもありました。

今考えてみると、自衛隊の人たちですらようやくたどり着いてくれたこの地域に、民間の一車両がやすやすと入れる訳がありません。当時は、避難所と家を行き来している人も多かったので注意喚起のためにと考え発信しましたが、共有すべき情報かどうか、もっと冷静に判断すべきだったと感じています。

後編では、避難所運営で見えた課題と、被災した経験から感じた必要な備えについてお伝えしていきます。

後編は2026年10月16日に投稿予定です。

出村優紀美さん

出村優紀美

石川県輪島市出身。実家に帰省していた際、2024年1月1日の能登半島地震で被災、避難所運営を手伝いながら避難生活を送る。学習塾を運営する民間企業に勤めた経験を活かし、現在は塾講師として学習指導を行いながら、Webライターとしても活動中。